予兆に気づけないままうつ病が発覚した女の備忘録
闘病記録1 はじめてのうつ病
一つ目の職場は某有名自動車会社の下請けだった。
お金に切羽詰まっている家庭ではなかったとはいえ、ソシャゲオタクである以上お金は出ていくばかりで、目先の金を求めて大学に行かず高校を出てそのまま就職した。
業務自体は他人と最低限関わりたくない自分にとっては相性が良かった。給料はよくなかったものの、初めての正社員だったため、それが自分の今後を左右するものなのかどうかを測りかねていた。
入社して1ヵ月。仕事を覚えるのが早い、作業も早いともてはやされ、現場責任者をやってくれないかという話まで出ていた(もちろん断ったし入社して間もない新人に任せようとするあたりまともな会社じゃなかったかもしれない)
そんなこんなで周りから神輿の如くヨイショされ続けた私は、周りの期待に応えるために尚更頑張ろうと意気込んだ。
そんな社会人1年目。私は一度目のうつ病を患い、入社して1年もたたずに会社を辞めた。
うつになったきっかけとか、会社での出来事だとかを語り始めるとかなり長くなってしまうので詳細は省くが、診断結果を聞くまで自分では何の予兆も感じなかった。今でこそ、この前兆を感じないところがうつ病の怖いところだったとわかる。
ある日突然思うように体が動かない、めまいで転ぶ等々思い通りにいかない日々が続いたが、残業や休日出勤も多く一週間交代で昼勤と夜勤をこなし、繁忙期は休みが週に1回しかない時期もザラな会社だったので、まあ疲れているだけかな、と思っていた。
そこからはいっそ面白いほど猛スピードで体調が悪化していった。
めまいは悪化し、歩いている最中に膝をつくことが増え始め、脳になにかあったら怖いからと上司に一日、もしくは半日でもいいので検査するために病院へ行きたいと申し出た。
返ってきたのは「それは人が足りないし仕事が回らなくなるから困る」という無責任極まりない言葉だった。
こいつ正気か???と思いながら無理やり休みをもぎ取り脳神経外科を受診したが特に何もなかった。ちなみにこれは余談だが「人が足りないので有給制度なくします」とかいうとんちんかんなことを言っていたため、この時私は有給ではなく欠勤扱いだった。解せぬ。
忙しすぎるせいで当時通っていた車校にも行けず、このままでは30万円ドブに捨てる羽目になるというところでまた上司に訴えた。
「車校の期限が近付いている。残業も多く仕事終わりに行くことが出来ないから半日でもいいから1週間に2、3回休みがほしい」
「仕事が回らなくなるから困る」
ここらへんでもう駄目だ…と思った私は「じゃあ私の代わりに30万円出してくれるんですか?!?!」とバチギレながら退職した。
しかしこの1回目のうつ病は実はとても軽症だったのだと後に思い知ることになる。
そんなこんなで無事ブラック企業からおさらばし通院をはじめるが、診察台、薬代がとにかくかかる。ので、この時点で仕事しなきゃ…と考えるが中々面接に行く勇気が出ず、自動車免許を取るために教習所に通いながら貯金を食いつぶして生活していた。
退職して1年ほど(あまり覚えていない)、ついに貯蓄が無くなる。順調に消えていく貯金額と、母親からの資金援助で生活していることに申し訳なさが限界突破していた私。こりゃまずいぞと死に物狂いで職を探した。そんな時、姉が自身の勤めている会社に話を通してくれたため、そのまま面接もクリアし正社員として採用された。
首の皮一枚繋がり収入面の安心を勝ち取った私だが、後にこの会社での出来事が人生で一番のうつ病のピークを迎えることになる。
闘病記録2 うつ病、再来
二つ目の職場は主にお菓子などを包装し出荷する受託包装企業。工場の中ではたくさんの人とのコミュニケーションが必要とされ、喋れなくはないが人と喋るととてつもなく疲れる私にとっては慣れるまで非常に大変だった。しかしこの会社でもなぜか仕事が早いと褒められまくり、ほな頑張るか!!の気持ちで調子に乗った結果2年ちょっと勤務した。我ながら単純である。
しかしこの職場、パートさんが一番厄介だったのだ。それはもう頭のイカれた上司なんてめじゃないくらいに。
入社したばかりの新人だろうがパートだろうが関係なく、段ボールを置く向きを間違えれば怒鳴られ、機械の調子が悪ければ怒鳴られ、品質管理のための名前記入を忘れると怒鳴られた。どれもまあ正当なものではあるのだが、如何せん注意とかのレベルじゃなかった。
「おいみうら!!この段ボールの置き方おかしいよな!!普通に考えればわかるだろ!!」
これはもう日常茶飯事。機嫌の悪いときはこれの3倍口汚い。ただ間違ったことは言っていないからと自分に言い聞かせていたのだが、これがまたよくなかったのだ。
元々人の気持ちや自分に向けられる負の感情に敏感だったのだが、年を重ねるごとにその厄介な性格に”ネガティブ”というさらに厄介な要素が加わりみうらという名の厄介メンヘラモンスターと化していた。
そんなモンスターなので、自己暗示を続けた結果「あの人の思い通りに動けない自分が悪い」という認識を持ち、それを疑うこともなかった。(おそらくここらへんから雲行きが怪しかった)
まあまあ大きい会社だったので棟や階で割り振られた現場によってパートさんの配置も変わるのだが、はじめのうちは残業や早出で顔を合わせる程度だったのが、2年目の冬。入社時期が中途半端だったので、ちょうど年明けたら3年目だねなどと話していた時期、負の連鎖が起こってしまった。
年明けの全体朝礼。このときはじめて心の支えだった同僚の突然の退職を知る。仲の良かった先輩たちと泣きながら現場の配置表を見たらなんてこった、例のパートさん(通称怪獣)と現場が一緒。というか私が今までいた現場から外され新しい現場にあてがわれた。つまりこれからずっと一緒だね❤の状態である。
しかもその仕事内容も、6人以上のパートさんの動きを見ながら時間になったら配置を交代させ、不良が出れば解体に行き、不慣れなパートさん入ればレーンを止めないようにサポートに行く。マルチタスクも大人数も苦手な私にとってはまさに地獄のような空間だった。
お察しの通りこの時点でかなり心が折れたのだが、生産が本格的に始まってからは地獄とかじゃない、もう奈落だった。
初めての作業、初めて見る書類、初めて一緒に仕事をするパートさんたち、なにもかもがキャパオーバーなのになにも教えてくれない現場責任者。
かなり限界だった。
その状態が3か月ほど続いたある日、追い打ちをかけるように(個人的には)大きな事件が発生。
私の中ではこんなに分かりやすく人と衝突するのが初めてなこともあり、本当に大事件だったため自戒の意味も含めてここはめちゃくちゃ詳細に書いていく。
その日はあまりにもてんやわんやだったためパートさんのサポートに入れなかったのだが、昼休憩の食堂で事件は起こった。
ちょうどコロナが蔓延し始めた頃だったため、食品を扱う会社である弊社も世間に倣って食堂の机に白い衝立がされていた。
休憩時間がずれていたため特に喋る相手もおらず、くたくたになりながら一人寂しくお弁当を食べていたら、衝立の真向いから「こっちが大変だって言ってるのに忙しいからって手伝ってもくれない」と、聞きなれた声が中々の声量で不満を口にしていた。
その人はパートさんたちの中でも特に喋り方や声に特徴があったし、内容的にも思い当たる節があったためすぐに自分のことを言っているとわかった。
本来30分の昼休憩だが、昼からの生産の準備をするために、いつも5分で食事をすませ現場に戻っていたので、その日も同じように空になった弁当箱を持って席を立った。
どちらにせよ不快な思いをさせてしまったことは申訳ないなと思った私は、なぜかその場で立ち止まりパートさんに謝罪をした。(今思えば当てつけのようでかわいくなかったかもしれない)
「仕事が出来なくてごめんなさい。手伝いに行けなくてごめんなさい」
この時点でもう半泣きだった。
時間がないので言い逃げのように立ち去ろうとしたとき「そんなこと言ってないじゃない!!なによその言い方!!」と金切り声で叫ばれた。
いつも可愛がってくれたパートさんだからこそ嫌な思いをさせてしまって本当に申し訳ないと思った。
自分のやること全てが面白いくらい空回りしていて、なんかもう何もかもしんどくなった私は、そのまま逃げるように現場へ戻り、切れ味の悪すぎるハサミを握りしめ「切れない…切れない…」と泣きながら手首に刃を当てていた。今思うとめちゃくちゃ恐怖映像だ。
ちなみにこの事件の少し前からリスカはしていたのでリスカ自体はこのことがトリガーではない。
この頃からOD(オーバードーズ)が始まった。
休日家に居てもどこからともなく怒鳴り声が聞こえる気がしていたたまれなかった。(多分幻聴)
OD界隈(そんな界隈はないかもしれない)でかなり有名なブロン錠を、一回に18~20錠ほど胃に放り込んでいた。※絶対に真似しないでください
やったことがある人、またはそういった知識がある人からしてみれば大した粒数ではない。なぜなら死ぬためのODではなかったから。死にたいわけではなく、ただ楽になりたいという気持ちが強かったので、多幸感が得られ、足元がふわふわする程度の粒数に留めていた。
ここで悲報、親バレした。
実家暮らし、しかも結構仲がいい。ので、私の様子がおかしいことに家族は気づいていたらしい。私から言いだすまでそっとしておこうと思っていたらしいが、ご飯をめっきり食べなくなり、さすがにおや…?と思った母に部屋凸され見つかった。
親としては本当に気が気じゃなかったと思うが、当時は本当に判断力が消失していたため、没収された薬のビンを探し出してはコッソリ飲むという親不孝の極みみたいなことを繰り返していた。
そんなことをしながらだましだましの生活をしていたのだが、ある日突然会社に行けなくなった。
ベッドから起き上がれない。指の一本も動かせないからアラームは鳴りっぱなし。いつもの時間に起きてこない娘を心配して部屋に来た母の顔を見て「支度が出来ない…支度ができないよぉ…」と泣きながら謝った。
ここまできてやっとSOSを出すことができた。
その日のうちに化粧もなにもしないまま、ヨレヨレのTシャツとジーパンだけ着て心療内科を受診した。
「うつ病ですね」
簡単に言われた。そりゃろうだろ、と今なら思う。しかし何度でも言うが、当時の私は思考能力が著しく低下しているため、まさかうつ病だとは思わず、その診断を聞いたときはそれなりにショックだった。
診断書がないと傷病手当が出ません的なことを言われたので、まあ今の状態ですぐ次の仕事探すのは無理だなと思った私は金を叩きつけて診断書を召喚。無事長期休みを勝ち取ったのだ。その3か月後、復帰できる状態ではなかったため会社のお偉いさん方にペコペコしながら退職した。
そんなこんなで丸っと2年(1年だったかもしれない)社会活動から距離を置いていたが、ここでまた貯蓄が尽きた。
とにかく金がない。お金がないと不安感に苛まれ精神状態が悪化することは医学的に言われているらしく(以下参考記事。興味のある方はぜひ)絵にかいたような不安感を常に感じていた。お察しの通りうつ病は思うように治ってくれなかった。
ここで三度目の就職活動。金がなくては薬も買えぬ。
しかしここまでの経験で私は自分自身への信頼を完全に失くしていた。入社してまたダメだったらどうしよう、すぐに辞めることになったら職場に迷惑がかかる等々。まじでお前そんなこと考えてる場合じゃないだろっていう思考が止まらない。
が、またまた奇跡的に次の就職先を見つけるまでの時間稼ぎという形で了承を貰い母の勤めている会社でパートとして勤務することに。
ここの職場がまたよかった。
勤務は朝9:00~15:00までが通常。繁忙期に多少残業があっても18時までにはほぼ帰れる。体調が悪いときは無理するなと帰してくれるし、閑散期は昼で帰れたり休みになることもあった。閑散期が続くと財布に響くので多少困ったが、ちゃんと働き始めるまでの準備期間としては本当にちょうどよかった。
他人との関わり方を思い出し、ようやく再就職を決意。
サビです。自分への自信を完全に喪失しておりました。私にどんな仕事が出来るか考えて居たら頭がパンク。またヒィヒィ言っていたらまた奇跡が起きた。
父親の伝手で知り合いの卸売り会社に就職できた。
おわかりいただけただろうか。なんと私は一社目以降すべて家族からの斡旋で何とかなっていたのだ。まじでごめんという気持ち。
とりあえず今は状態も落ち着いて、現在の仕事は勤めて一年になる。
うつになるきっかけは人それぞれ。みんな心のキャパが違う。気づかないうちに手遅れになってしまうケースもあるからみんな自分のキャパを把握することから始めよう。私が言えるのはこれだけだ。
ちなみに「うつ病って言っても気持ちの問題じゃん」と思っている方いますよね。私の周りにも結構います。簡単に言ってしまえば概ねその通りです。心の病なので気持ちが問題なのです。が、具体的にどうなるん???と思っている方もいるかと思いますのでうつ病患者として一個人に起こった具体的な症状を書き出していきます。あくまで参考程度に見てください。
※ここであげる症状が全てではありません。症状は人によって異なりますので、例えば私が出来ているのに他の人がうつを理由にできないことを責めるようなことは決してしないでください。
闘病記録3 主な症状
・目に入るすべてが死ぬための手段に見えてくる。
・驚くほどなにもできない。
・幻聴が聞こえる。
・半端じゃない回数の中途覚醒
・希死念慮
・眠れないことによって判断力が低下
・指の一本も動かない
・好きなことが好きなのかどうかわからなくなる
等。症状としては大まかにこんな感じ。
闘病記録4 自傷行為
以下本文でも書いた私の自傷行為を覚えている限り、オブラートに包まないバージョンでお送りいたします。
※場合によってはショッキングに感じる人もいるかと思うのでやばいなと思ったらブラウザバックしてください。(まあまあありがちな軽いものから順番に紹介します)
①喉元を強くつまむ
完全に無意識にやっていた。常に首元にあざがあった。
②爪や唇を噛みちぎる
口の中がいつも血の味がしていた。
③指の皮をめくる
これも無意識。常に指血まみれだった。
まあ常に死にたいという気持ちはあったが、手首切って死のう、みたいなことではなかったので、新しいカッターを買ったとき、切れ味悪いやつと同じ勢いで切ったらとんでもないことになって笑いが止まらなくなった。アホである。
⑤OD(オーバードーズ)
コスパ最悪のブロンを20錠ほど。はじめのうちは手の震え、視界が揺れる、足元がおぼつかない、何も考えられないから気が楽。くらいだったが何が原因かは分からないがありえんほどの吐き気で空嘔吐を繰り返す。それでもないよりはマシの気持ちで飲み続ける。薬に救いを求めていた。
⑥首を絞める
夜中に突然目が覚めることはザラ。処方された眠剤なんか効かない。夜中に起きて涙が止まらずとにかく一心不乱に枕もとのスマホの充電コードで首を力一杯絞めた。脳に酸素が回らなくなって意識が飛ぶまでやっていた。
⑦身体中を殴る
不安になったり、希死念慮が急激に爆上がりしたとき頭やら足やら腕やらをとにかく無差別に殴りまくった。これが個人的に一番意味不明な行動だった。体は常にあざだらけだった。
⑧風邪をひく
これはマジで意味が分からないと思うのでプロセスを書き出す。
世間や家族のみんなは働いているのになにもないでベッドにいるのが申し訳なくなってしまい、意味もなくリビングの机の下でうずくまって唸っていたのだが、寒かろうが暑かろうがそうしていたので風邪を引いた。あと多分普通に免疫力が下がっていた。
大まかにまとめたが、うつ病を患ったことのある人は共感できる部分もあったかもしれない。
ここまで読んで、取り扱い難しい~~~~~ッ!!と思う人、いますよね。人間って心の琴線が人によってまじで違いすぎるので、本来慰める行為とかって難しいものなんです。なので別に上手く慰められなかったとかは気にする必要ありません。受け取る人によってそれが慰めになるかならないかは変わるので。
とはいっても仲のいい人が落ち込んでたら気になっちゃいますよね。参考程度に、近しい人に同じような状態の人がいたらどうすればいいか、私個人が言われてうれしかったこと、いやだったことを書いておきます。
あくまで個人の感想なので身内とか仲がいい人とかなら事前に言われて嫌なことは聞いておくことをおすすめします。
嬉しかったこと
・こちらに選択を迫らない
「あれしたい?これしたい?どっちがいい?」「大丈夫?無理そうなら言ってね」と元気づけようとして聞いてくれる人は多いが、正直もうなにもできないし考えられもしない。「何もしたくない」と言って相手がしょんぼりするのを見るのも辛いし、気を遣ってくれたのに…と逆に落ち込む。「あれ一緒にやろうよ」とか「もう休もう」と言ってくれた時は気が楽だった。
・体調を聞いてくれる
数時間置きとか、トイレに行ったときとかほどほどの頻度で「体調どう?気持ち悪いとかはない?」と聞いてもらえた時の安心感はレベチ。
嫌だったこと
・「頑張って治そうね!」「私たちが治してあげるから!」
これは実際に言われた。シンプルには??となってしまう。頑張って治るならもう治ってるが?????
・「死にたいって思うんだ~私そんなこと思ったことな~い」
これも恐ろしいことに実際に言われたことである。ほん怖。ちなみにこれのヤバさがわからない人はヤバい(語彙力)ので気を付けた方がいい。
他人との関わりを完全に遮断していたので本当に数少ない事例しかないが、嫌なことだけは鮮明に覚えているので一言一句違わず書けた。人間の脳みそは愚か。
これ以上は書いてもなんの参考にもならないようなことしか出てこないのでこれで終わりにします。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
最後にもう一度サビです。
症状は千差万別。ここまで読んで「なんだそんなの甘えじゃん」と思う人もいると思うが、それを人にぶつけるのだけはやめてほしい。
余談だが”うつ病は甘えか否か論争”が勃発されるたびによく矢面に立たされている「不登校児の是非問題」では、「自分は毎日辛くても学校に通っているのに心の病気を理由に休むなんて甘えだ!」という人は少なくない印象だ。こう思ってしまう人はその人自身が疲れている場合が多い。周りの人が同じようなことを言っていたり、自分に思い当たるところがあるなら、それは心のSOSのサイン。きちんと心と身体を休める場所を見つけるべきだと個人的には考えている。
もちろんそれが一番難しいことで、ほとんどの人がつまずくところではあるのだが、どうか自分の心を追い詰める場で我慢しないでほしい。
うつ病になって良いことはない。一度なったらどれだけ改善しても元の生活に戻るのは至難の業だし、当たり前にできてたことが出来なくなっていくもどかしさと一生付き合っていくことになる。マジでかからないに越したことはないと身をもって経験した女の備忘録でした。
拙い文章ですが何かしらの参考になれば幸いです。